宗派 曹洞宗
名称 大淵山 本興寺
住職 26世 髙原 昌栄
本尊 釈迦牟尼如来
開山 日杲良吉大和尚
開基 本寮門察和尚
本寺 吉祥寺 新潟県(4ー4教区・36番)
寺宝 釈迦牟尼如来木像(泰澄大師作)
教化事業 本興寺保育園
開基本寮門察和尚の生国俗姓等は不詳であるが、文明元年(1469年)この地に小庵をおこし、大渕山本興寺と名称し、もって不朽の洪基を建てた。山号は村名にちなんで、暗に霊源不測の渕を現し、寺名は本法の興隆常時不断道場であることを明らかにしたものである。門察和尚は永正17年(1520年)示寂した。
大永5年(1525年)橋田村吉祥寺僧徒宗文長老ここに住し、当寺を吉祥寺の門葉に属させた。当時は戦国乱世の世であったので、その後住持僧のない時もあったが、慶長初年(1596年)吉祥寺9世日杲良吉大和尚が同寺を退譲し、当寺に隠栖した。そして盛んに緒堂経営に意を注ぎ、法器調備、槌払提唱、大いに宗風を宣揚した。これにより、四衆倶にその徳を慕い、普同請して開山芸祖と崇称された。これより当山は、諸方禅刹の列席に預かり、法幢竪起の梵壇となった。天保十年(1839年)火災にあったが、同13年18世の代に再建し、山内とともに現在に至る。
開山 | 日杲良吉 | 寛永10年3月1日 | 慶長初年、吉祥寺9世日杲良吉大和尚、当山へ転住 |
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2世 | 峰菴良雪 | 慶安4年10月28日 | 中興、慶安3年5月19日総持寺に瑞世、受業師良吉、本師麟壽 |
3世 | 智外良傳 | 元禄11年9月8日 | 慈光寺19世弟子 |
4世 | 雪秀本嶺 | 享保6年1月16日 | 元禄10年新発田藩に由緒書提出 |
5世 | 石天全補 | 元文3年7月19日 | 薬師庵開山 |
6世 | 恕霖觀忠 | 享保16年3月13日 | 加茂法音寺4世 |
7世 | 不識禪髄 | 宝暦5年3月1日 | 享保10年5月3日総持寺に瑞世、受業師泰獄、本師觀忠 |
8世 | 宗岳得髄 | 明和6年10月20日 | 延享4年3月16日総持寺に瑞世、受業師禪髄、本師禪髄 |
9世 | 然提亮廓 | 寛政1年4月27日 | 明和7年9月15日草水村観音寺へ転住、大昌寺14世 |
10世 | 大恭愚孝 | 天明2年9月23日 | 明和2年4月13日総持寺に瑞世、受業師愚明、本師然提 田上定福寺 |
11世 | 玉圓義璨 | 文化13年12月24日 | 寛政1年3月会津領小松村西照寺へ転住、天明3年4月2日総持寺に瑞世、受業師亮廓、本師愚孝 |
12世 | 朴門亮淳 | - | 寛政1年9月退居 |
13世 | 梁山玄棟 | 寛政3年6月30日 | 寛政3年6月19日総持寺に瑞世、受業師愚孝、本師朴門 |
14世 | 智堂瑞光 | 享和3年4月11日 | 寛政4年4月28日総持寺に瑞世、受業師朴仙、本師朴仙、観音寺27世弟子 |
15世 | 雄山玄英 | 天保2年7月26日 | 西照寺17世、長徳寺12世、林葉寺15世、薬王寺10世 |
16世 | 勇山龍猛 | 文化7年11月4日 | 耕泰寺14世、田上定福寺14世 |
17世 | 臥雲金龍 | 天保9年1月8日 | - |
18世 | 證應道契 | 弘化3年3月29日 | 天保10年9月9日朝火事、天保13年5月6日日本堂・諸堂再建 |
19世 | 大如千雄 | 明治2年3月31日 | - |
20世 | 種田珪琛 | 明治25年4月29日 | 無量庵(寺)開山 (太田) |
21世 | 佛海珪種 | 明治25年6月13日 | (山田) |
22世 | 大円玉道 | 明治34年5月4日 | (木村) |
23世 | 活水大珠 | 大正13年10月4日 | (武藤) |
24世 | 龍水玄珠 | 昭和43年10月4日 | (髙原) |
25世 | 大眼昭孝 | 平成8年2月22日 | (髙原) |
26世 | 水眼昌栄 | 現在 | (髙原) |
24世の髙原玄珠氏は明治25年8月28日に生まれ、昭和43年7月31日に亡くなられています。10才頃、新潟の髙原家よりお子僧さんとして本興寺に入り、明治41年夏、23世活水大珠大和尚初会に於いて入衆す。大正2年冬、宮城県仙台市荒町皎林寺住職石龍文堂大和尚初会に於いて立職す。大正3年8月、23世に就き嗣法す。大正13年1月転衣。大正5年~8年3月頃迄福島県耶麻郡木幡村泉養寺の住職(23世)を務められたようです。大正13年10月4日、本興寺23世亡き後、住職として寺を維持、発展に務め昭和3年に晋山結制以後、約40年間24世として法灯を絶やす事なく伝承されました。